人生はDREAM

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シアターX『ゴドーを待ちながら』

両国はシアターX『ゴドーを待ちながら』を見てきました。
初日の整理番号1番のチケットを買ったにも関わらず、その日は忘れて家に帰ってしまったというマヌケさ。泣く泣く最終日に当日券を買い直しました。

ベケットをまともに観るのは初めてです。
仕事帰りで疲れが出たのか、冒頭から若干うとうとしそうに。頑張れ!自分!
英語は全然ダメなので字幕を追いながらついていきます。が、字幕は台詞を全部映してくれるわけではないらしく、書いてないところは雰囲気で読み取りました。
しかし演出なのかわかりませんが、字幕を出すスピードが不安定な上、情緒がない…。

不条理劇といわれているこの作品、観劇後めっちゃ疲れる覚悟を決めてきたのですが、思っていたよりずっと笑いが多いので楽しめました。特に後方席の笑い声がすさまじく、英語がわかる方にはツボがいっぱいあったのでしょう。

しかし笑いを上回って私が感じたのは、彼らが過ごしているのは「積み重ならない時間」だなあということでした。
一幕でウラジーミルとエストラゴンは、ポッツォとラッキーという二人の人物に出会います。そこでのやり取りは、ポッツォとラッキーの人格、関係をある程度決めるのに充分だったはずですが、二幕(劇中では翌日)で再会した時は、一幕でのことはポッツォの中でなかったことになっています。関係は「なかったこと」にされました。
そして、ゴドーのことを伝えに来る少年。劇中では2日続けて現れる彼ですが、「昨日も会ったね」という問いかけには「いいえ」と答えます。ゴドーは来ない、けれど明日必ず来る、と、前の日とまったく同じ言葉を話します。昨日会って話したはずなのに、それはなかったかのように繰り返されます。そして待っている人は叫びます。「明日、昨日会ってないなんて言うなよ」と。(台詞はうろ覚えなので、相違あったらすみません)

「待つこと」が鍵であるとするなら、これが意味するものは、「待つこと」は「目的(ゴドーに会う)の達成」と直結しないのでは?ということです。つまり、ウラジーミルとエストラゴンはまったく無意味な時間を過ごしている。舞台上で起きる出来事はリセットされ、展開のきっかけにはならない。観客に起きる笑いは一時的なものに過ぎません。物語の続きは、一幕・二幕の繰り返し。彼らは永遠にゴドーには会えないでしょう。

待っているだけでは永遠に会えない。ではなぜ自分で探しに行かないのか?行けないならぱ、彼らは何に囚われているのか?
そこを探るのが、「待つこと」を説明するのに必要なことなのかもしれないなあと思いました。